2006/05/13 14暗譜


後輩から連絡があった。なんでも高校のときの音楽の先生が、
家電の量販店の楽器売り場で働いているという。
ちょっと気になったから行ってしまった。

まず傷つけてしまわないように、僕が今まで培ってきた知識と哲学を
総動員して考えることにした。僕はその先生のことを悪く思っていない。
でもそれは余計な心配で、教師自体は辞めていないことを知った。

当時から僕のピアノは下手で、上手い友達同士の会話のカヤの外だった。
僕がノクターンを弾いていると、上手で性格も良い友人が、
その技術に裏打ちされた言葉でもって
「ショパンが良い時もあるよ。でもベートーベンだね。」
と言われたものだ。もちろん冗談で、微笑みながら言われたのだった。
僕にはベートーベンは分からず、しかも難しくて弾けなかった。
その友人達が部屋から出て行っても、僕は一人で下手なショパンを弾き続けていた。

でもこの先生は僕のピアノを気に入ってくれていたので、
僕もこの先生に良いイメージだけがあった。

大体僕はベートーベンが分からないだけではなくて、ピアノそのものだって分からない。
紅茶を好きなんじゃなくて、ミルクを入れたアールグレーが好きなんだという事と同じように、
ノクターンと、ベルガマスク組曲と、亡き王女のためのパヴァーヌが好きで、
あと、訳も分からぬまま亜麻色の髪の乙女を弾き続けていただけだったのだ。

僕はよく和音を間違えた。窓を開けていた先生はただ「ミファシ」とだけ言った。
僕は「あ」とだけ言って、そこからまた弾き直していた。

僕は昼休み、誰も居ない視聴覚室で寝ていることがしばしばあった。
午後、視聴覚室を使う授業が無いときは、誰も起こしてくれず、
そのままサボってしまうことになることもあった。
ある日僕が寝ていると、ピアノの上手な僕の友人が入ってきて、
その先生に告白し出したというエピソードを思い出した。
僕は風景になっていたらしく、僕に構わず告白は続けられていた。
友達は「待ちます」と言い続け、先生は断り続けていた。

友達が視聴覚室から出て行ったあと、僕が居たことに気づいた先生に口止めされた。
僕は寝ていたことにして「何のことですか?」と言った。

その後、僕はピアノを弾いた。
僕が和音を間違えると、教壇を整理していた先生はただ「ドファラ」とだけ言った。
僕は「あ」とだけ言って、そこからまた弾き直していた。
そんなこんなしているうち、高校時代が過ぎ去って行った気がする。

僕は今日、量販店の楽器売り場で、久しぶりに亜麻色の髪の乙女を弾いた。
そして、なんだか全てが思い出せなくなって、途中で止まってしまった。

隣で僕のピアノを黙って聴いていた先生は「ミソシ」とだけ言った。

僕は、急に思い出し、

「あ」とだけ言って、

そこからまた弾き直した。



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