2006/10/28 5御免遊ばせ


(どちらかというと自意識過剰なのは僕のほうだ)

その少し奇妙なまでに丁寧な若い女性は、しかし自意識過剰と言うわけでもなく、
仕事の都合上、僕と一緒に取引先に行き、
そこで知った、ある一つの不幸な出来事に対してこう言った。

「○○様がお亡くなり遊ばせたと伺いましたが。」

最初、感覚的に、僕はそれを聞いて「おや?」と思ったが、
大して気にはならなかった。
その言葉がただ敬語として使われたということを、僕は知っていましたから。

打ち合わせはいつも通り淡々と、時に笑いあり涙あり、つつがなく終了した。
そのビルから直通の地下鉄に降り、
帰りの電車の中で、僕はその娘に本当になんとなく聞いてみた。

「君、若いのにすごく丁寧だね。お家柄がよろしいのかな。」
(どうしても嫌味な言い方になってしまうな。僕は育ちが悪いしな。)

「あら、貴方だってお若くて紳士ではありませんか。」

僕は流行りの漫才師のように、滑稽に、とっさに焦って言った。
「ええええ、そう?どのへんが?いや、どうもありがとう。」

「だって、貴方は、○%&”$&%#$%(ガタンゴトン、ガタンゴトン)」

僕に向けられた賛美の言葉は電車の音に効果的に掻き消されている。
(あ、今僕、多分、社交の辞令を賜ってるんだろうな。ありがたいことだな。)

娘は引き続き話をした。
「先程のお打ち合わせについてですが、今週のう(ガタンゴトン、ガタンゴトン)」

(いいなあお嬢様。いや、先入観だけで勝手に、僕の「お嬢様イメージ」に
クラスタリング(分類)しちゃだめだよな。
ん?、でも逆に、そういう遊びなのかもしれない。お嬢様ごっこ。
僕の中にあるお嬢様という既存の概念に、この娘はアクセスしようと
しているのかもしれないな。だとしたらそれも、ありがたいことだな。)


そのあと少し沈黙があって、もちろん手持ち無沙汰な僕はきょろきょろする。
週刊誌や文芸雑誌の吊革広告には、最近問題となっているらしい「北朝鮮問題」や
「愛国心教育」についての皮肉がならんでいた。

僕も最近、そういうことを考えていた。だからつい、呟いてしまった。

「いつから、遊びが本気になっちゃうんだろうか。」

娘はこちらを見ただけだった。僕はチラと見てこう思った。
(まつ毛が長いな。お嬢様。役を果たしきっている。)


人間は、放っておくとすぐ遊びを始めてしまう生き物だろう。
それはいい。せっかく人間に備わっている想像力を、楽しまない手は無いだろう。
しかし、いつの間にか本気になってしまった子供達の遊びには、
他者に対する強制が生まれ、選択の自由性・主体性が失われてくる。
すると、残念ながら、大人達によって「我に返らせる」必要が出てくる。
主体性と平和を同時に確保するために、
意識を人間の実存に再び戻す必要が出てくる。

遊びに本気になった人間達を「我に返らせる」には、
その時代におけるカンフル剤が必要となるだろう。
楽しかったはずのその遊びは、カンフル剤によって分解され、
ひょっとしたら永久に取り上げられてしまうかもしれない。
だから「いい加減にしなさいよ」と、お母さんは言ってあげるのだろう。


本来、遊びは、主体的に選択することによって行われる。
今日、死さえも遊ぶと言われた○○さんは、最高の賛辞を得たと言える。
全てを主体的に選択した○○さんの人生。まるで腹を切る武士のようだ。
そして彼は完全に自由だったのだ。

僕はでも「お亡くなり遊ばせた」の扱いについては、
賛否あるんだろうなと思っていた。が、よくよく考えれば、
それらの「「遊ばせ」ことば」には、
1つ、それ自体を遊ばせるセリフがあると思った。

それは「「遊ばせ」ことば」の目的そのものだろう。
そして、多分、今、別れ際にこの娘は、それを言うだろう。


「では、ごめんあそばせ。」

「ああ、じゃ、また。ごめんあそばせ。」

僕はこの娘の全てを赦した。
そして僕も、この娘に赦されることを求めた。

二人とも笑顔であった。



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