| 厳密には、公平であること。 また、いわゆる、人を傷つけてはならないこと。 また、法の上に、適切な酌量を行うこと。
正義とは、まず、人類による、自ら(個人/人類)の不安を 取り除こうとする試み(恐怖の克服)だと言える。 通常は、社会契約のかたちを取る。
何らかの行為が正義であるか確認するためには、 その行為によって、何者をも不安を発生していないかを確認すればよい。
不安を発生させることは、精神的に傷つける、「傷害」なので、 基本的にどこにも発生させてはならない。 但しそれが、明らかに即座に効果を発揮することが自明なものであれば、 その限りではない。(注射など。注射は一応肉体を傷つけて痛いため。)
つまり、何らかの幸福のために、地球上に一人でも生贄を用意してはならない。
もし、「痛みを伴う改革」のようなかたちで、多数決などによって、 一部または全部と思われる市民に、明らかな害が及ぶ行為が実行されるのであれば、 その時、当該の市民は「脱出」を選べなければならない。 この「脱出」が選べない状態が「抑圧」である。
問題は、この論理に従って、論理的に各状況を観測した時、 「既に抑圧されている」ことが発覚することだ。 何事にも無血のソフトランディングが求められるが、 その抑圧があまりに酷い場合、「既に戦争状態である」と認識されるかもしれない。 (一方的なので実際の状態は「虐待」であるが)
さて、「正義」に限らず、階層を下って、もっと根源側、 人間がアツマリを成して行おうとすることそのものが既に、 「恐怖の克服」だと言えるかもしれない。
人間が恐怖を克服したのち、公平にその恐怖の克服の技術を 譲受できる状態、また、幸福についても、公平に譲受できる状態を 更なる理想として、「正義」は、「恐怖の克服」から「公平性」に拡張される。
人が、多少は恐怖を持っていて、それが人によって差異を持たないものであれば、 正義は満たしていると考える。
例:注射を打つ時、その時に痛みの不安があっても、 全員が受けるものなので、正義は満たしている。
更に考えてみると、例えばそこで、痛くない注射が開発されたとすれば、 それを、全地球市民に公平に使用出来ていない状態は不公平であり、 それだけを見れば、そんなには大きくない不公平ではあるが、 そのような歪みがエスカレートすると、やがて、正義を壊していくと考えられる。
人間(社会)の営みとは、殆ど正義そのものと言える。
参考:愛によって緩和された真実 ウルティマオンラインにおいては、正義とは、 「愛によって緩和された真実」と定義する。 これには酌量の余地を感じさせる。 法は取り敢えずのテンプレートであって、 個々の事象において、個別撃破が基本となる。
参照:征地球論 参照:不老不死の公平性 参照:脱出可能
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